エッセイ 意味というもの <ドストエフスキー「白痴」>
ドストエフスキーの「白痴」に、イッポリトという余命半年を宣告された、肺患病みの青年が登場する。
この青年は、人生に絶望し、小さな部屋に閉じ籠もって、思索し、ある想念に想到する。「人生に意味などない。」というのが、この青年が結論としたことであった。
青年は、自分が掴んだと信じた、この真理を、皆に伝えるために、「わが必要なる告白」と題した長々しい自伝的告白を書き上げる。
人生に意味などないのであれば、「わが必要な告白」など、必要も意味もないものであろう。だが、そうした矛盾には、一向に、気付かずに、彼は、人々に食ってかかるように、自分の自伝的告白を、皆の集まりの日に、読み上げ、押し付ける。
夜も明け、長い「告白」を読み終わるや否や、彼は脱兎のごとく、素早く、用意して置いたピストルを取り出し、自分のこめかみに当て、引き金を引いた。「カチリという音がしたが、弾丸は出なかった。」と、作者は書いている。
人々の驚きは、哄笑に変わる。イッポリトは、「忘れたんです!つい、雷管を入れておくのを、忘れたんです!」と必死で言い訳をし、失神して倒れる。
笑ってよいのか、同情してよいのか、分らぬような状況だが、わたしは、人生に意味などないという人に出会うと、いつも、この小説の場面を思い出さずには、いない。
そうして、小説は、これだけでは終わらない。一切を見聞きしていた、主人公のムイシュキンは、イッポリトの涙は、自分の涙でできていると、感じる。そして、彼は、人気のない公園に行くと、突然、カラカラと笑い出し、その後で、じつに、深い憂愁が彼を包んだと、作者は書いている。
人生の意味というものに、突き当たった方には、この小説を、読むことをお薦めしたい。
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