エッセイ 人物評価
江戸期の儒者、荻生徂徠という人は、非常な博識だったそうだが、世にいわゆる「物知り人」という人たちを、ひどく嫌っていたそうである。彼らは、知識だけは御大層だが、まるで、自分の力でかんがえるということをしてないというのが、その理由である。
その徂徠の、一番の娯楽は、空豆を食いながら、古今の人物について、その評価を論うことだったと伝えられている。
わたしは、論語を読んでいて、おやと思った箇所があった。「日に三省する」で有名な曾子を、孔子が評して、「参也魯」と言っているところである。参は曾子のあざなだが、「魯」はのろまとか鈍間という意味で、決して良い意味ではない。
同じ文脈で、「由<子路>也粗」(子路はがさつだ)と言っているのを、見ると、中国の人らしく、人物評価を一言で片付けているのが、痛快だが、同時に、自分の弟子たちに対する深いと言って良いような、愛情が感じられるように思われる。
曾子を「魯」と言ってのけたのは、友人に関して、いかにも心を砕いているのは分かるが、それでは、鈍というものであろうという、意味であろう。
子路についても、「粗」と言ったのは、粗野ではあるが、けして、野卑ではないという意味が込められているとみて良いので、孔子は、おそらく、これらの人物評価を、笑みを浮かべながら、言ったであろうと、わたしは想像する者である。
国を代えて、ロシアのドストエフスキーで、その小説に描かれた人物評価は、なかなか、穿って面白いものなので、ここに、引用してみたい。
「罪と罰」のスヴィッドリガイロフについて、「彼を知らぬ者は、彼を笑い。彼を知る者は、彼を恐れる。」ロシア人の名前と同じく、中国の簡潔性に比べて、長々しい人物評価だが、その人物像が、彷彿とするような、いかにもどこかに居そうな、おそるべき人物という感じがする。
また、「悪霊」のスタブローギンについては、「『彼の顔は美しいが、まるで、仮面のようだ』と、人々は噂し合った。」と書かれている。この小説を読む者は、この男の、およそ人を人とも思わぬ、人間に対する強烈な侮蔑を、感じずにはいない。
人物評価というものは、また、おそらく、その評価を行っているその人自身をも、語らずにはいないものだと思う。
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