エッセイ 自助と他助
いつ頃だったか、かなり、昔のことだが、ある文芸同人誌に所属していたころ、わたしの書いた文章について、この文章は、自分のために書いたのか、それとも他人のために書いたのかなどと、やかましく言い立てる人がいた。
わたしは、「そんなことは、どちらでも構わない。自分のためになるんだったら、それで良かろうし、また、それが、他人のためになるんだったら、それこそ、もっけの幸いだ。」というような返答をして置いたのを、覚えている。
およそ、文章を書くことに対して、自助とか他助とかを云々するのは、どうかしているという思いがあった。
今でも、そのときの思いは変わらないでいるが、自助や他助ということをかんがえるとき、わたしは、自分の行いというものも、また、そのことを峻別しないで、行動していることがよくある。
「情けは人のためならず」というようなことが、言いたいのではない。
自分のためにしていたと思っていたことが、そのまま、他の人のためだったり、また、他人のためにしていることと思っていたことが、自分のためのことに他ならなかったことが、あまりにも、多くあったことを思うからである。
自助といい、他助といい、どちらがどうと言えるものではないと、よく思う。
わたしは、このことを敷衍して、自力と他力さえ、どちらがどうと言えるものではないと思っている。
念仏は、自分の本心から出たものでなければ、意味を成さないし、禅には、教外別伝という面授の伝統が、厳然としてある。でなければ自分勝手の禅は、ただの野狐禅となってしまう。どちらも、自他の力を、必要としなければならないものなのである。
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