エッセイ きれぎれ草 75 <西郷隆盛、本居宣長>
西郷隆盛
偉大な人ほど、傍らから見ると滑稽であるようだ。
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この人は、史実に拠る限り、およそ外見上の威厳というものを、まるで持たなかった人で、上野公園の有名な銅像などは、全くのうその皮である。
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西郷という人格には、正面から挑もうとすると、此方が砕けてしまう。
歴史上の破格の業績と、様々に相矛盾する性格とが並び立ち、とても一人格として捉える事ができないのである。
余談だが、信長についても、ほぼ同じことが起こる。
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こうした事は、私心というものがまるで無く、さらに、圧倒的に大きな人格にしか、起こらないことである。
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学問の世界で、そういう人を探そうとすると、本居宣長という人が、それに当たる。
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宣長の場合は、いきなり下手に、この人の本領というべきものに近づこうとすると、此方の頭脳が割れてしまう。
この人の学問上の不朽の業績と、子供のような信仰のあり方の間で、身動きが取れなくなるのである。
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しかも、宣長の場合、この人の本職は医者であって、学問で金を稼いだことは、ほとんどないのである。
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思えば、私心のまるでない、大きな人格の持ち主というのは、恐ろしく強力に、自立しているが、また、後世からは、誤解されずにはいない人のようである。
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