エッセイ 働くということ 12 <隠居考2>
※シリーズの間が空いてしまいました。
さて、こう書いてきたところで、このシリーズの一番始めに言及した、隠居について、さらに詳しく述べる番が来たように思う。
思うに、隠居というものは、世の中また社会から絶妙な距離を保っている人ではなかろうか。
今、断捨離ということが流行りであるが、隠居は言わば、自らをゆるやかに断捨離した人であると言って良いのではなかろうか。仏教でいう出家、道教でいう逸民を、合わせたような趣がある。
日本では、隠居と言えば、横丁の隠居と決まっている感があるが、これは、どうやら江戸時代から明治にかけて、作られた常識のようである。「大隠は市に隠れ、小隠は山谷に隠る」そういう言葉があるそうで、誰もが、大隠になりたかったであろうから、横丁の隠居が増えたのは必然だったようである。
ただ、現在、横丁の隠居はほとんど払底してしまって、「山谷に隠る」隠居ばかりになってしまった。
そのことと、現在、生きがいを実感できない働き手が多いことと、関連はあるのかどうか。
次は、そのことについて、論を進めたいと思っているのだが、これも難題ではあるのは間違いないようである。
<続く>
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