エッセイ 方言について <大きな個性>
方言はおもしろいものである。ある地方は、必ず、その土地に根付いた方言というものを持っている。東京も例外ではないので、べらんめえ調の東京弁は、話す人が少なくなったとは言え、やはり、方言である事に変わりはない。
それで、個性というものが、真似しようがないように、方言も、その通りであって、ある方言を真似しようとしても、決して、自然に話すことが出来ないものである。
志ん生の落語で、東北訛りの人物が出て来る噺があるのだが、志ん生ほどの噺の名人でさえ、これは模倣とすぐに分かる話し振りなので、例えば、忍術である地方に溶け込もうと思ったら、その方言を使わなければならないという条があるそうだが、これは、それこそ、お伽噺であろう。それほど言語に堪能な人間というものはあり得ない。
ただ、標準語というものは、ご存じの通り、模倣が可能である。これは個性というものがないからで、人間としては、大変、おもしろ味もない人物ということになる。
テレビを見ていると、ひと頃の標準語オンリーの弊を抜け出て、かなり、自由に方言を使う人が増えて来て、慶賀なことである。バラエティ番組の力というものであろう。
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