Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 働くということ 8 <資本主義とその余慶>

ここで、「道」の論に入る前に、資本主義について、日頃かんがえていることを、少し、まとめて書いてみたい。


資本主義経済がもたらすものは、豊かさである。豊かさというものは、言わば、生活上の拡大と利便と華やかさであるが、それがいつのまにか、人生上の事柄にまで広がるものだという信仰に近いものがあったのは、日本が豊かになるための、致し方のない神話であったろうと思う。


量の変化は、質の変化を伴わずにはいないことは、すでに述べた。経済の規模が、増大することによって、社会はどのような変質を遂げたか。そのもっとも大きなものを挙げれば、社会自体の変化するスピードが、格段に速くなったことであろう。


人々は、資本主義という奔馬に必死で、縋り付こうとして、自ら、無理にでも変化しようとし、時には、それを先取りさえしようとする。そうした光景は、資本主義社会のどこでも見受けられる現象のようである。


資本主義とは、主義というのは名ばかりのことで、人がそれなりの金を稼ごうと思うのなら、現在、どうしても避けて通ることの出来ない、巨大な社会現象そのものと言って良い。


そうして、だが、わたしには次のことが、資本主義経済が齎した、最大の恩恵のように思えるのだが。特に、成熟した資本主義経済に言えると思うことだが、
先述したような、資本主義の本筋を、追い駆けるようなことはせずに、言わば、欲をかかず、ただ、つましく生きていくだけで十分とする場合は、そうした職業に適合する、仕事上の選択肢の自由があるというのが、成熟した資本主義経済の余慶の最大のものではないかと思うのである。


その、もっとも究極の形が、ベーシック・イン・カムということになるだろうが、このベーシック・イン・カムは、発想としては、ロボットに仕事を取られたために、その分を、代償としてわれわれに分け与えよというものである。なるほど、論としては、成熟した共生社会としての役割というものかも知れないが、こうした論は、論そのものが受動的すぎるような気がしてならない。


まるで、自分の傷口を見せて、金を払えと言っているような気がする。


それで、発想を転換してみたい。江戸時代の学者、山鹿素行に「身分論」という著作があるそうで、そこでは、次のようなことが言われているそうである。(ただ、この本は流布本がなく、本が手に入らず、わたしはこの本を読んでいない。けれども、その概論だけでも、聞くとなるほどと思わせるものがあるので、そこで、少しばかり、その論を引いてみることにしたい。)


当時、武士は、食わせてもらう階級だった。一所懸命働いているのは百姓であり、彼らは、生活ために身を粉にして、働いている。だから、百姓には責任の生じる余地はない。


だが、武士は食わせてもらっている階級、要するに有閑階級に近い、だから、生きることの意味について、しっかりと応える必要がある。つまり、人間として生きる意味を問う、学問をする責任と義務がある。それが嫌なら、君、百姓になれ。というものである。


この論を、ベーシック・イン・カムに応用するなら、言わば、江戸時代は、武士階級は学問をして、社会を上支えした。その代わり、ベーシック・イン・カムを受ける立場の者は、人間の生きる意味を問い、自分の属する社会を下支えする役割を持つ。つまり、生きる意味を問う、権利と義務を負うという発想である。


武士階級は、支配階級だったが、ベーシック・イン・カムでは、立場は丁度、逆転することになる。


こちらの方が、より、積極的なベーシック・イン・カムの在り方だと思うのだが、さて、どうであろうか。


ただ、論が、行き過ぎたようにも感じる。


また、「道」については、思うところがあり、次回に詳しく述べてみたいと思う。


<続く>