エッセイ 働くということ 7 <働くことの意味>
何のために働くかと、問われると非常に多くの人が、生活のためと応えることだろう。
これは、これで無理のない応え方のようだが、何の為にという、意味を問う問い方ではある。
ここで、その意味するところを、便宜上、二つに分けてかんがえてみたい。
このことは、およそ、生活上の悩みに関することと、人生の意味に関することとを、どう捕らえるかに絞られるだろう。この両者を一体のものとして考える仕方と、別個のものとして、考える仕方があるが。今は、分けてかんがえてみたい。
そうすると、生活上の悩みは、そのほとんどが、お金で解決し得るものと言える。その代わり、人生上の意味は、置き去りにされたままとなるであろう。
こうした図式的な見方に頼れば、お金を取るか、それとも、人生上の意味を取るかというような、人生観が出来上がるだろう。また、この人生観は大きく人々の、いわゆる価値観というものを、決定付けたりもしている様が見えてくるだろう。
けれども、もう一方の見方をすれば、人生というものは、それほど単純なものではないとも言えるであろう。
もう一方の見方とは、この働くということを、そのまま意味のあることと、捕らえる仕方、言わば、生活も人生も、そのまま分かち難く結びつけられたものとして見る見方である。
こうした見方は、種を明かせば、東洋の老荘思想に由来するのだが、この思想は、世のあらゆる事象に、「道」というものを見出そうとする。
これは、日本人にとっては、とても、身近なかんがえ方と言ってよいものなので、日本人が如何に様々なところで道を好むかは、武道、柔道、何々道、果ては香道まで、あることを指摘すれば、充分であろう。だが、このことは、つい、最近まで、忘れ去られていた見方でもある。
働くということについて、西洋風な動機が注ぎ込まれたことによって、意味が曖昧模糊としてしまったと言い得るのである。
要は、「道」ということ、あるいは、「道」という言葉を、捕らえ直すことになるのだが、これはこれで、また、なかなかの宿題である。
さて、この文章は、どうなることであろうか。
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