Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 独り言 <ある告白>

わたしは、苦手なものは多いが、地理や数学は特に不得手で、例えば、四国などは、四県名は言え、高知くらいならどこかは分かるのだが、後の香川、愛媛、徳島となると、どこがどうだが、途端に怪しくなる。東北の方だともっと疎い。


また、中国に行ったとき、円を元に直す計算が、曖昧になってしまい、ある人に換算数を伝えるとき桁を間違えて伝えてしまった。だが、これは数学というより、算数であろうか。


因みに、数学は、高校二年生のとき、数ⅡBで数学的帰納法なるものが、単元で出て来たとき、躓いてしまい、それから数学は断念した。けれども、その単元になる前までは、わたしは理系科目の方が得意だったのだが、この数学的帰納法だけは、訳が分からなかった。


社会人になってから、数学科で大学院まで出た人と懇意になり、その人に、そのときの疑問をぶつけてみると、「ぼくは、その数学的帰納法を理解するのには、丸一日掛かりましたよ。」と言われ、そこで、わたしなりに納得できた。


何せ、そのとき、わたしはそれを小一時間ほどで、理解しようとしていたからである。それを専門とするような人が丸一日かかったところを、1時間だけ考えて解る訳がない。このときばかりは、高校の時の自分の不明と根気の無さを、悔いたものであった。


それにまた、幼い頃を思い出すと、わたしは習い事がじつに嫌いな子どもだった。そろばん塾に通わされたのだが、嫌で嫌でしようがなく、よくずる休みをしたものだった。不登校ならぬ、不通塾であった。小学生の頃であったが、六年生でそれでも、日商と連盟の3級を取って、取った途端、早々と辞めた。


中学は、不良が大勢居たこともあって、また、この不良どものおかげで、どれだけ、身震いするほど、嫌な思いをしたか知れない。また、話の分かる教師が、居るにはいたが、大半の教師、それも学校で勢力を持った教師どもが、わたしにとっては敵であった。不登校にならなかったのが、不思議なくらいの状況だった、とこの頃のことを、振り返ってよく思う。


さて、わたしは、習い事がじつに苦手で、だが、ピアノは好きだから、ピアノを弾けたらとよく思うのだが、もし、わたしの家庭が貧乏ではなく、またピアノの教室に通わせるくらいの文化力と経済力がある家庭だったとしても、わたしの習い事が嫌いな性分ために、途中で放り出していたであろうことは、想像に難くないが。


わたしは、小学生の時、算数のドリルなるものが大嫌いで、こんなものを何故、こなさなければならないのか、訳が分からないと思っていたものである。


中学では、学校の雰囲気もあり、勉強はまるでする気が起こらなかった。そのわたしが、狭い道で、草野球の真似事をして遊んでいると、近所の人からは、「この子は、こんなに毎日遊び呆けていて、大丈夫か。」と言われたものである。


こうしたわたしでも、東京のそれも難関と言われているM大学に合格でき、卒業したのだから、人生というものは分からないものである。


親父お袋はともに、「勉強は、本人がその気になるのを待てばいい。」と言いもし、まったくの放任主義だった。入った高校は気に染まない男子校だったが、高校に進学したら、勉強しようと、中学3年の終わり頃に、心に決めていた。そのこともある程度良かったとは思うが、何せ、勉強の仕方が、いい加減だったから二浪もする羽目になってしまったが。


浪人一年目は、神経的症状にさえ悩まされたものだったが、二年目になって心を入れ直した。


予備校に通わせてもらえるくらいの経済力は、家にはない。そこで、二年目の浪人の時に、Z会の存在を知り、通信教育で安上がりに済ませ、それを、とことんやって、やっとM大学に受かったというところであった。


今は、移転してしまったが、当時、名古屋の中心部にあった県図書館に通い詰め、毎日、そのZ会の通信教育を勉強した。


このときになると、もう、お袋は、弁当は作ってくれず、毎朝、自分で卵焼きとピーマンを焼き、それから、チキンハンバーグを湯煎で温め、それをサランラップに包み、それらを弁当箱に入れ、白ご飯をよせて、お茶の出る休憩室で、食べた。毎日、この献立で飽きなかった。この生活を、1年間続けた。


偏差値なるものを、わたしはほとんど気に掛けなかった。Z会の通信教育料にさえ、高いと苦言を呈するお袋に、模擬試験を受けることなど、相談さえできなかった


あるとき、Z会で模擬試験があった。通信教育で、模擬試験とは不審なとは、思ったが、他の受講生も、きっと真面目に取り組んでくれるのだろうと信じ、何も参考にせず、本当の試験形式を自分でやり、その通信の模擬試験なるものを受けた。結果は、さんざんであった。他の受講生で、わたしのように律儀な受講生はほとんど、居なかったのである。


このこともあって、Z会にはある不信の念が芽生えたが、大学に入ってから、ようやく、その正体が知れた気がした。


それが、「なんだ、ただのインテリ集団ではないか。」という思いになった。わたしは、小林秀雄を読む以前から、極度のインテリ嫌いであった。


わたしは、一体に、ある人やある集団についての悪口は、況してや、お世話になったそれらについては、出来るだけ避けるよう気を配っているが、このことだけは書いておくことにしたい。ただ、教育産業としては、良いところのある企業だとは、今でも、思っているが。


やはり、ブログだからだろうか。自分のことをさらけ過ぎた気がするが、書いてしまったから、UPすることにします。