エッセイ 一つのNO <未成年者の>
憶えておられる方も多いと思うが、ある卒業を控えた一人の高校生が、自分で履修した覚えのない科目が、履修されていることになっている書類を受け取り、「その単位はいらない。」と、大きく、ひとつのNOを、言ってのけたことがあった。
この一人の少年の、たったひとつのNOが、日本中を、騒動の渦に巻き込んだ。マスメディアは、連日のように、この話題を取り上げ、高等学校の校長先生たちは口々に、「わたしは教育者としての資格がない」と言い、果ては、その中の何人かが自殺に追い込まれたという事態にまで発展する、事件となった。
このときの事を、わたしは、振り返って思うのだが、そのとき未成年だったために、名前さえ知られる事のなかった少年の、その頑固一徹そうな風貌は、朧げながら、イメージが湧く事はあるにしても、それも想像の域を出はしないが。
ともあれ、一人の少年の、不正を正そうとする声は、日本中に響いた。
では、それまでの日本の高校を卒業した学生たちはどうであったか。わたしも含めて、一人として、彼のようにNOを言う者は、居なかったのである。
このたった一つの声が、日本中に轟き、高等学校の校長の自殺者を出す事態にまで至っていながらも、誰も、この少年を英雄扱いしようとはしなかった。
一つの声は一つの声として、遇する。これは日本人のとても良い態度ではないかと、わたしなどには、思われるのだが。
海外では、ある未成年の少女の、政治的戦略に満ちたNOを、英雄視し、ヒロイン扱いにまでしてしまうのとは、まるで違った国民性を感ずるのである。
さて、人人は、どちらの国民性を好く事だろうか。
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