エッセイ 翻訳というもの 3<すべて訳す必要はない>
般若心経の漢訳版では、わざと元の言語の発音のまま、漢字に写し、敢えて、訳を示していない箇所がある。
これは、思うに、とても賢い訳し方であって、例えば、コーランに書かれた謎めいたA.L.M風の趣がある。この3字は、まったく解しようがない記号であって、イスラーム圏では、どのような解釈もゆるされていないものである。
例は、やや卑俗になるが、最近のテレビで、現代の忙しい夫婦の機微を扱ったコマーシャルがあるが、あそこで、もっとも効果的に使われているのが、英語の曲である。思うに、わざと英語圏の曲を選んでいると感じられる。下手に翻訳された曲や、分かり易い意味を持った曲を持って来ては、このコマーシャルは、台無しになってしまうのは、見易いことだろうと思う。
現今、分かり易いということが、あまりにも叫ばれすぎている。いったい、誰が、分かり易い人生など送っているだろうか。
コロナが、不思議なほど少なくなって来ている現代日本である。不思議な現象には、事欠くことなどない。すべてが、説明できると思っていたら、大間違いも良いところである。
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