エッセイ 論語と聖書 <真理と輝くもの>
論語は、とても不思議な書物である。孔子が怪力乱神を語らなかったように、鬼面人を驚かすということはまるでなく、ある奇跡的な事跡の記述もない。
この書物が著された、そのこと自体が、何よりの奇跡だとひねって考えてみたところで、論語という書物は、じつに、過不足なく当たり前な顔をしているだけである。
この言わば、どの社会に置いても、中を得た、基本図書に成り得るという性質は、輝かしいという性質ではなく、むしろ、そのままで、すっと人間社会の中に入り込んでしまうという不思議な普遍性を持っている。
わたしは、若い頃から、聖書中のキリストの姿の輝かしさと比べて、論語の孔子の姿が、キリストほど輝かしいものではないのが、なんとなく、東洋に生を受けたものとして、不満だったのだが、今では、そうした輝かしいものだけが、真理というものではないというかんがえに至っているので、そうしたことが気にならなくなった。
これも年齢のせいであろうか。
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