Toshiのエッセイと詩とおすすめ本と絵などのブログ by車戸都志春

文芸を中心に、エッセイやおすすめ本の紹介文、人物画、写真、現代詩、俳句、短歌などを載せたブログ。by:車戸都志正

エッセイ 名付けるということ

命名行為は、人間にだけ与えられた能力だが、良い名を付けようと考え出せば、およそキリがなくなる、この命名という行為は、原初は無論定かならぬが、人間が何ものかに名付けようとしたときに、そのものの性質形状までをもしっかりと、表現できなければ、意味がなくなってしまうものだという意識を更新せずにはいなかったものに違いなかろうと思う。


本居宣長の「古事記伝」は、日本では古来、名はただ、やすらかにおおらかに付けられたものとして、さまざまな例を挙げているのが見られて、興味深いが、その「古事記伝」には、特に神名について、「この訓み、思い至らず」としている箇所が際立って多いのも、色々な研究者が指摘するところでもある。


日本人は、漢字に対して訓読という、他のどの国の人も思い浮かばなかった態度をとって見せた。このことが、古代日本語の研究をじつに難解なものにし、江戸期の宣長が出るまで、古事記をきちんと読むことさえできなかったのだが、この宣長という大才は、また、古事記をそのまま信じて、後代の人からバカにされることを、少しも厭わなかった人だったようである。


あるとき、わたしの知人が、「古事記」を読んでいたのだが、その物語に感嘆しつつ、宣長ほどバカな学者はいないということを言ったので、「いやいや、宣長が居なかったら、古事記は今のような形で読めなかったんですよ。」と言うと、とても驚いて見せた。


宣長は、その生前からバカと言われていたが、後世の一般人からも、バカと思われるようでなければ、大学者とは言えないもののようである。


因みに、今流行している「新型肺炎」は、WHOが別名を付けたはずだが、まだ、一向にそう呼ばれる気配がない。命名とはむずかしい仕事である。